「人生の意味と価値」の哲学。そして「人生がむなしい」をどうするか?




生きる意味ってなんだろう?、人生に意味はあるのか・・

とくに虚しさを感じるとき、人生に行き詰ったとき。小さいころに考えた人もいるでしょう。

また、生存がほぼ保証され、価値観や選択の自由がいちおう広がった今、あらためて「生きる意味って何だろう?」となるのも自然なことだと思います。

ここでは「生きる意味」をどう考えるか。また「むなしさ」の問題について、自分がセラピーの中でたどりついた答も書いています。

 

目次

「生きる意味(がない)」論について

 

この問題については、大きく分けて2つの方向性があると思います。

一つは、まさに人生における「むなしさ」「無力感」という感情的な問題。自分もありますが、人生においてこれを感じる人は多いでしょう。その感情をどうしていけるかという問題。

もう一つは、考え方として、あるいは哲学的にどう捉えるか、そしてそれが役に立つかということ。

だいたい、この2つが重なっているので、とりあえず分けて考えると考えやすいでしょう。

 

「生きる意味」を感情の問題として見ると

 

「生きる意味がない」は虚無感のような感情があるときに出てきます。しかし、「生きる意味ってこれだよね」ってふつうあんまり思わないというか、常には意識しないと思います。

つまりおおむね、「生きる意味がない」のほうが感情が伴ってより実感的であり、「生きる意味がある」はやや思考優位です

というか、生きる意味が「ある」も「ない」も感情の状態に左右されるので、理屈では太刀打ちしにくい。しかも、「ない」のほうが持続しやすいと言えるのではないか。

 

そんなこと考えない~♨

 

だとすると、論理的にどうかというよりも、やはり人間の持つ虚しさ、というか自分の虚しさをどうするか、になるんですね。

この感情的な問題については、自分の中では一つの方法にたどり着いていますので、後に紹介します。

 

しかしまず、「生きる意味」を哲学的に問うてみる

 

考え方で言うと、中途半端な理屈で意味があるとか、ないとか、さらに言えば、ほんとは意味はあると言ってるのに言葉のレトリックで、「人生に意味はない」とか言ってるのは、好みではないですね。

ほんとに意味はない、と言ってるのであれば、徹底的に意味はない、で考察してほしい。まったく男らしくない(って僕が言うか、って感じなのですが)、筋が通ってないって思うものがある。

 

ということで。哲学的には、まずこの方にお任せしようと思います^^。

この問題に対して、哲学者として真正面から考察した人。自分が大学院生だったときの哲学の先生。

荻野恕三郎(おぎのじょさぶろう)先生。

 

こういう人、ホント大好きです(生意気な言い方ですがお許しを)。よくいる海外の哲学者の受け売りとか紹介者でなく、自分オリジナルの考えをまっすぐに言う。しかも、どうでもいいことでなくて核心に触れる。

本物の学者なら、こうあるべきじゃないでしょうかっって感じです。もう少し話せばよかった、と今思う。

 

「人生の意味と価値」より

 

 

「私は人間は無条件に価値ある存在であるという理解を持つ」

「もし、人間を人格とみるならば、人間は無条件に価値ある存在として現にあるといえる」

「まぎれもない根本的な事実として一人一人の人間が宇宙に唯一人、何人によっても、何によっても代理も交代も不可能な、そして何によっても手段とされることなき、自己目的的な存在、つまり人格としてあるとみるからだ」

ー 荻野恕三郎(1998)『人生の意味と価値』南窓社 ―

 

核心部分だけの引用ですが、まあ要は、生きてるだけでいいんだよ~ってことですね。だってそれだけで価値があるんだもの、あえて言えばねっ、て。

 

 

そして、過去の有名な哲学者らの考えを批判する。

「よく生きる」ことが大切であると説いたソクラテスを批判し、善のために人間があるのでなく、人間のために善があると説く。人間を善や理想のための<モノ>として見た代表がソクラテスであり、人間の持つ無条件の価値を知らなかった、と批判する。

しまいには、「ソクラテスは無意味な人生は真の人生に非ず(あらず)と排除してしまった。器量小さい人といわねばならない」と書く。まあ。清々しい。

 

ニーチェのニヒリズムに対しても、一部認めつつも、それが徹底されておらず、彼が神を否定しながら関心の対象であったことや、新たな価値を提唱したことなどから、「彼のニヒリズムはチャチといわざるをえない。やるなら徹底してほしかった」。

チャチって( ´∀` )。思わず笑ってしまいます。もちろん、批判してるからいいというわけでなく、自分も哲学については良くは知らんですが・・。

しかし、哲学の偉人たちに対して自らの考えをまっすぐに書いているのが、とっても心地がよいのです。

 

写真はイメージです

 

そして以上のような考えから、「生きがい」についても徹底的に批判しています。

「生き甲斐は人間にとって空気と同じように必要」と説く「生き甲斐について」の神谷美恵子氏の意見に対し、生き甲斐があるのは人生のわずかな時であり、わずかな人であり、生き甲斐は条件的であり、そもそも生き甲斐は価値の条件に当たらない、と徹底的なまでに「生き甲斐無用論」を説く。

分かる。これはけっこう前の本ですが、最近、生き甲斐という言葉はあんまり聞かない気がしますね。

 

あの「夜と霧」のフランクルの「何の目的も認めない人は哀れである」に対しては、「たわけた発言である」(笑)とし、「目標があろうとなかろうが、そんなことに微動だにすることはない。正しく大盤石なのが人生の意味であり、人間の意味なのだ」と。

一部だけ抜きだしてるので文脈は無視してますが、、まあ、揺るがない大きさがありますね。

 

 

生きる意味が「ある」とすることの意味

 

これに似た内容で「生きる意味はない」という結論もたぶん導けると思います。全肯定と全否定はほぼ表裏一体ですからね。でも、この2つの間には決定的な違いがある、と思う。端的に言えば、人間を見る目線でしょうか。

あぁ、ただ「自由」を強調すると、「生きる意味はない」が心地いいときはあるかもですけど。

 

ここで改めて、彼の説く「生きる意味と価値」を確認してみます。

「自然法爾(じねんほうに)」という親鸞の教えを「一切肯定」の境位として捉え、「生きるということは一切肯定すること」「一切を肯定しないと生きられない人生を生きている」と言う。

つまり、この世には良いことも悪いことも、納得できることも納得しえないこともある、そのような現実の中で、「生きていること」そのものが大変なことであり、一次的な価値である、と。

この現実がよいからこの現実を生きているわけではない。この現実を納得しえているから生きえているわけでもない。自分がこの現実をよしとするしないということをこえたところで生きているからなのだ。(中略)

どのように(な?)現実をもうけいれ、肯定しえているから、つまりは一切を肯定しているからこそ、生きえているのである。そのいみで、この現実を生きるということは大したことだといわねばならない。なにしろ至難のはずの一切肯定ということをなしえているからだ。

この現実を生きるということは、この一切肯定という大したことをなにげなくなしえて生きているということなのである。すごい私たちの生だといってよい。

 

この本では、さらにこのようなことが考察されています。一部を見てみると、、

  • もちろん、そうは言っても現状として、教育も社会でも人間が<モノ>として扱われていること。
  • また、人間だけでなく、交換不可能な存在であるのは木の葉の一枚一枚も同じであり、一切の事物に尊厳性を認めていること。
  • しかしながら、人間が生きることを考えたとき、他の生物の犠牲の上に立っており、生命の不条理性、さらに言えば、「悪」を肯定するということ、その事実を直視すること、などについて。

 

この本を読むと、ああ哲学っていうのも理屈でなく、その人の人間性というか、度量の大きさが出るもので、

「生きる意味ってあるのか?」って思ったときに、どれだけ納得できるような答を出せるかどうか、なんだな、と思います。たぶん、本来の哲学の目的ってそういうものだったのかな?どうなんでしょう。

ともかく、もっと評価されてしかるべきかと思います。

細かく言えば、疑問点もあった気もしますが、何だったか忘れてしまいました(笑)。

 

しかし、「人生がむなしい」と感じるならどうするか

 

あえて言えば・・この本では、人間の「生きる意味と価値」は思想的には明確に提示されている(と思う)。

しかし、その世界の中で感情的にどうしても「意味がない」「むなしい」と深いところで感じてしまう、といった切実な問題について、どうすればよいかは語られていない。

まあ、そのための本ではないから当然なのですが。

 

このことに関しては、まさにカウンセリングやセラピーが別の答えを出していかなくてはいけないと思います。もちろん、スピリチュアル的観点も必要でしょう。

 

スピリチュアル的に見た「生きる意味」

 

スピリチュアル的に「生きる意味」を見れば、やはり「魂の成長」になるでしょう(もしくは、「生成発展」というほうが自分のイメージに近い)。

ただ、今見てきた考え方に照らして、魂の成長という目的のために生きる、とすればそれは「条件的価値」であり、小さい見方である、と言えなくもありません。

この点は、自分はこう考えます。「魂の成長」は人間が意図して目的とするか否かに関わらず、あらかじめ全ての存在に与えられている意味であると。

自分で選んで生まれてきている、のだとしたら、少なくともその選んでいる主体にとっては目的なのかもしれない。でもまあ、少なくとも、ふつう選んできた記憶はないし。。

ここを掘り下げると別の話になりそうなので^^;・・まずは、「そのために」生きるのでなく、生きることの中心的価値としてあらかじめ組み込まれている、と見る。

 

先の哲学の話とつなげると、確かに人間は無条件の価値を持つが、その上で(魂の領域では)やはり体験し成長(というか浄化というか真の自己愛的な)するという志向性を持つ、ゆえに、問題を抱えそれを解決しようとする性質を持つ、となります。

このへんは先生の考えと少し論点が異なってくるのかな?

 

魂の成長は、近年のそういう系の中でよく聞く話ではあります。で、感覚的にそうだろうな、と思うのですが、、一つ言えば、「だとして、どうすればいいの?」つまり、「その成長とやらに役立つものは?」でしょうか。

 

問題のまとめとセラピーとしての答

 

まとめると、

  • 哲学的、またスピリチュアル的にも「生きる意味」はあると言える、と自分は考える。
  • が、人生において「むなしさ」「生きる意味がない」と深く感じることはある。これをどうするか?
  • また、「(魂の)成長」と考えたとして、そのために何ができるのか

 

この問題については、もちろん人それぞれ、いろんな答があるだろうと思います。

その中で、自分自身がとくにセラピーという領域において、紆余曲折の上で出会った一つの答があります。

 

根本的なむなしさ、自分はダメだ、分かってもらえない、といったネガティブな感情をどう癒すか、ということ。そして、成長につなげていくこと。

それを実現するためには、その感情の根本のメカニズムを知り、そこに働きかけていくことができればいい。

知り得る限り、そのための最も効果的な方法であり、感情と記憶の領域ーつまり脳の仕組みーを最大限に利用するセラピー。

 

それが「楽洛感情解放アロマ®心理セラピー」です。

虚しさに限らず、なかなか変えられないネガティブな感情。しかし、それを癒し変えていくことは、おそらくふつうに思われているよりももっと可能なことである、と感じています。興味がある方は一読してみてください。

 

【楽洛感情解放アロマ®心理セラピー】ネガティブな感情を根本から解放

 

荻野先生についての思い出

 

院生のとき、友達3人で先生の自宅のある、桜の咲く京都にお伺いしたことがあります。

京都の「哲学の道」の桜

 

先生よりずいぶん若い3人を置き去りにするほどの速さで歩き、一日何食食べてますか?というくらいよく食べ・・。そのかくしゃくとした姿を思い出すと、先生の哲学のバックボーンが分かる感じがします。

そのとき、先生からこんなふうに言われました。

 

「明石くんは疑問点はいいんだけど、結論がないんだよねぇ。」

まさにそうだったと思いますね。哲学とは違いますが、自分が探し続けたもの(セラピーの形)にようやくたどりついて、一つの答を書くことはできるようになったかな、と思っています。

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