潜在意識の癒し・浄化をしていったとき、最後に、なかなか手放せない感情、思いが残る。
解放したはずだけど、またぶり返してくる。
そういうことがあります(自分もそうでした)。そんな場合の見方について、一つ書いてみたいと思います。

最先端のCG技術を駆使した手書きです。
まず、見える現実は、おもに潜在意識のフィルターによって変わってくる、の図です。
通常、人間の認識では、この意識(目玉オヤジっぽいけど💧映写機)は見えなくて、映っているスクリーンが現実になる。
つまり、自分は映写機で、現実を映している存在であることは忘れている。
物事が「うまくいかない」と思う時、まずは、このスクリーンの中に原因があると思って、そこを何とかしようとする(あの人がこうだから~とか、あらゆる対処法も)。
それから次に、自分のフィルターに何か原因があるかもしれないとなり、そこを見ていく。
で、潜在意識を癒すとか、クリアにするというは、このフィルターをきれいにすることで、映画の見え方や中身が変わるということですね。
インナーチャイルドもその一つです。
また、今世のものだけでなく、土台となる過去生も含まれているようです。だから、今世にその影響が強く出たりするのですが、それも自分の経験として浄化させるという点では同じですね。
でも、、それも含めて「潜在意識の問題」だけ見ていても、なお限界が出てくることがあります(私はそうでした)。
それはなぜでしょうか?
フィルターを通して現実を映し出すことを可能にしている光。
自分という意識を生かしている何か。
その存在に目が向いてないから、という見方ができます。
そのようなとき、つまりは、潜在意識とスクリーンの間を行ったり来たりしてしまいます(やっぱり分かってくれないとか、スクリーンに戻っちゃう)。

解放したはずなのに、変わんないよっ!てなる。
そんなときに、もっと根源のほうに目を向ける。
個人としての自分の根源ではなく、映している光に気づく。そこを通して癒してもらう。
それが、潜在意識という「個人の五感の体験による領域」から自由になるための一つの道なのだな、と。

自分の意識(マインド)が見通しやすくなったね。
理屈から言っても、この光というべきものがないと、人間のリアリティは存在できない。
映写機から光が出ていないと、フィルムだけでは何も映し出さないように。
いわば、スクリーンに映る現実を変えようという意識から、映写機(フィルム)そのものに、そしてフィルムを映している光に目を向けるという視線の転換。
それによって、自分の抱えていた感情・思いがよりはっきりし、同時に幻想であったかもしれないことに気づく。
なんというか、それらが自分の本質ではなく、その表れであることを納得できる。
そして、そのために効果的な方法が、その光を自分の中に感じる「瞑想」になるんだな、と。

その光の正体が、いにしえから、宇宙意識、純粋意識、あるいは創造主、神、根源のエネルギー、といった名前で呼ばれているものになるのだと思います。
過去生でさえそうですが、、神とか、宇宙意識とかいうと、もっとあいまいで雲をつかむように思えるけど、、
偉大な人たちが言ってきたように、それらの存在は、けっこう合理的に説明できるものだろうと思います(たぶん、量子力学とかでもいいんでしょうけど、ちょっとまどろっこしい)。
ただ、、その存在、その愛を実際に感じるには、それを心で求めて体験してくしかないのでしょう。
瞑想はまだ初心者、体験としてこれからの領域ですが、そんなふうに感じています。
そこを感じるうえでの今の参考書。「あるヨギの自叙伝」のヨガナンダさんの講和集。
「理性」の大切さも書いてあって、「マインド」が持ちやすい、悪しき習慣(感覚の奴隷)から抜け出すためには、決意や理性も大切だよーと。わたし、理性は肌に合わんなーって思ってましたが、この視点だとなぜか納得できました。
で、あくまで目的はこの世じゃないって感じですね。それが逆に、この現実を夢として軽く生きるコツ、かもですね。
コメントを残す